呪怨:呪いの家

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酷い表現があるというだけでその作品を否定することは可能なのか『呪怨:呪いの家』

『呪怨』シリーズ初の連続ドラマにおける「昭和終わりから平成初頭の犯罪史」とリンクした酷い表現と、そのあり方について考えてみました。

 2020.7.21

ビデオ版2作のあまりに恐ろしいとの噂に好奇心を抑えることができず、怖がりのくせにまるで呪いの家に興味本位で入り込んで酷い目に遭う登場人物のようにレンタルして、観たことを本気で後悔するくらい恐ろしかった奴こと私ですが、最初の映画版2作以降は恐怖心の薄れと共にあまり興味を抱かなくなっていました。
 
それはやはり、ホラーアイコンとしての伽耶子と俊雄が、恐怖と笑い(というかバカバカしさ)が隣り合わせな中、薄皮一枚で恐怖側に存在するという立ち位置であり(実際伽耶子が階段から這い降りてくる姿は怖さと同時に見た事がない生き物に遭遇したような唖然感の方が強かった)、言わば「出オチ」キャラであり、見れば見るほど笑いの側に近づくのはある意味宿命なので、完全にモンスター側に振り切った『貞子vs伽耶子』は素直に面白がる事が出来ました。
 
そこで『呪怨:呪いの家』ですが、さんざっぱら味を吸い尽くした伽耶子と敏雄が存在する『呪怨』シリーズのもとになった「現実の出来事」という構造になっており、それによって笑い側でもモンスター側でも無いより現実的な方向性を示すことになり、その結果、昭和末期から平成初頭にかけたオカルトブームと現実の事件や事故をリンクさせつつ描くという方針になったのだと思われます。
 
この作品におけるホラーアイコンは、《呪いの家》というか《呪い》そのものであり、タイトル通り主役であるとも言えます。
 
《呪いの家》は、直接間接に関わらず接触した人間に染み込み、ある者は殺し、ある者はわざと生かし、時空をねじ曲げ、見せたいものを見せ、運命を操るというこの作品の支配者です。
 
『呪怨:呪いの家』場面写真⑦
 
そしてこの《呪い》が恐ろしい(というか嫌らしい)のは、「何故なのか?」という問いが一切通じず、規則性がわからず、呪いの舌先三寸で全てが決まってしまうことです。
 
かつての『四谷怪談』などの恐怖映画では、その問いの答えは「恨み」であり、霊から個人への復讐という閉じた回路が、また『リング』では、「ビデオを見る」という呪いに対して「他人に見せる」という(一応の)答えはありました。
 
しかし『呪怨』では生き残るための答えすら無く、ただ呪われるしか無いのです。
 
そこに老若男女の区別は無く、関わった人はみんな(種類や程度は違えど)等しく酷い目に遭います。
 
そして更に、現実世界により近い層にある「作品内で起きる陰惨な犯罪」が、果たして人間の意思で行われたのか、それとも《呪い》の結果なのか、そのどちらとも関係あるのか、当の本人も(そして観る側も)判別出来ないまま、只々酷い事が起きるのを見ているしかないという点がこの作品を一層禍々しいものにしていると言えます。
 
とにかく見てスカッとするとか天啓を得るというような物語では無く、ひたすら嫌なことが起きる作品であり、妊婦さんや心が弱っている状態の人は見ない方が良いです(もちろん自分の意思で見るのは自由ですが)。
 
この原稿を書くにあたり、ズルをしてこの作品に対する他の人のネット上の感想などをこっそり読んだのですが、いろんな意見がある中で「ミソジニー」という言葉を使ってこの作品を否定するものが散見されました。
 
「ミソジニー」はフェミニズムの文脈でよく使われる女性嫌悪や女性蔑視を表す概念で、近年哲学者のケイト・マンによってそれまでの定義(「素朴理解」)を超えて、「男性優位の家父長制秩序」による「女性を支配するための社会的なシステム」という理解が提示された、というのをネットで今調べました。
 
確かにこの作品には、レイプ、妊婦殺人、売春など、女性の尊厳を損なう陰惨な事件の描写が沢山出て来ます。これらを見て暗澹たる気分になるのは当然というか、ならない人は自分を見つめ直した方が良いと思います。
 
『呪怨:呪いの家』場面写真①もちろんどのように作品を評価しようとも、それは観た人の自由である事には変わりありません。
 
ですが、以前にShortCutsで『全裸監督』(同じく昭和の終わりから平成初頭という時代設定)について書いた時にも思ったのですが、私は「酷い表現があるというだけでその作品を否定することは可能なのか?」という点についてどうしても考えてしまうのです。
 
予めお断りしておきますが、私は差別をするのもされるのも嫌だし、差別は是正されていくべきだと思っています。一方で、あらゆる作品は肯定するのも否定するのも観た人の自由だし、表現の自由は守られねばならないと思いますが、全てが許される訳では無いとも思います。つまり、表現の境界線を引く明確な答えを、自分では決めかねている、というのが現状です。
 
ここで、この作品の全6話中に出てきた酷いと思われる表現をざっと確認してみたいと思います(ネタバレになるので未見の方は飛ばして下さい)。

・かつての連続幼女誘拐殺人事件の犯人を連想させる男が、おそらく誘拐したでだろう女児に暴力を振るう。
 
・高校の同級生の女子生徒2人が、男子生徒を使い、疎ましく思った転校女子生徒を呪いの家でレイプさせて写真を撮る。
 
・レイプされた女子生徒が、レイプした男子生徒を写真によって逆に脅して自分の母親を殺させる。
 
・母親殺害後、逃亡して一緒に暮らす男による、女とその男児(男の子供か不明)への暴力。
 
・かつて憧れていた男性と密会し、その子供を妊娠して出産間近の女性が、夫と別れるために殺そうとするが逆に殺され、怪我を負った夫は胎児を取り出して相手の男性の家に向かうがそこは《呪いの家》で、相手の男性は自分の妻を殺害した後に首吊り自殺しており、家に帰ると女性のお腹に電話機が入れられている。
 
・男の暴力で男児が意識不明で入院、女は売春で金を稼ぎ、久しぶりに訪ねて来た男に麻薬を過剰摂取させた後、風呂場で溺死させる。
 
《呪いの家》で、かつての家主の息子が女性を部屋に監禁して妊娠させるが、女に殺害され、女も死体で発見されるが子供の行方は不明。

(以上ネタバレ終わり)
 
その他、昭和から平成へ移り変わる時代という設定上、現在から見て違和感を感じるシーンはいくつかあると思いますが、主な描写はこのくらいだったと思います。
 
『呪怨:呪いの家』場面写真④「レイプ」や「暴力」、「売春」「監禁」などの単語を取り出すと、女性の尊厳を損なう描写がいくつもあり、理解が浅い私でも、いわゆる素朴理解のレベルでも、その先の理解でも「ミソジニー」の要素はあるのだろうと思われます。
 
しかし全体に目をやると、女性だけが極端に狙われて酷い目に遭っているだけとも言い切れないのも事実で、現実により近い階層の物語を選択した時点で、時代設定的にも現実を反映した描写にならざるを得なかったのだと言えます(もちろん男も女も同様に殺されてるから平等だとか、時代設定を免罪符に酷い表現は全て許されるなどと言いたいのではありません)。
 
そして、上記のほとんどの行為に、この物語の主人公である《呪いの家》(もしくは《呪い》)が関係しており、行為の主体はどこにあるのかが判別しにくくなっているのです(当然ですが《呪い》を言い訳に行為を正当化している訳ではありません)。
 
つまり、《呪いの家》に接触した人間は等しく酷い目にあうという「《呪い》が支配者である世界」で起きる物語上の酷い行為と、現実世界で起きる酷い行為は、果たして同じ土俵で考える事が出来るのか?という疑問が湧き起こるのです。
 
製作者によって映像作品に(意図的にせよ偶然にせよ)内包された意味を全て理解することは不可能で、自分の理解の範囲内で考えるしか無いのですが、「画面に映った“自分が注目した(否定したい)もの”を切り取って判断する」行為が、その作品自体を判断することにつながるとは私には思えないのです。
 
『呪怨:呪いの家』場面写真⑧
 
作品中の差別的表現を理由に作品自体を否定する人の最終目的が、「現実の差別を是正していくこと」なのは間違いないと思います。
 
しかし、「差別」という言葉を消しただけでは現実の差別を無くす事が出来ないように、「恐怖や嫌悪を疑似体験することで何らかの感情を喚起する」ことを目的に作られた作品から「差別」をピックアップして消す行為が、現実の目標に近づく手段になるとは私には思えません(観るものを一定の思想に誘導する事を目的としたり、明らかに現実の差別や犯罪行為を推奨するような内容の作品は論外ですが)。
 
「酷い描写が存在すること自体が差別である」という意見もありますし、実際に酷い描写が存在すること自体により直接ダメージを負ったという方がいるのであれば、放映中止を求めたり、その他の法的手段を取るという選択肢もあるし、それを行使するのも本人の自由意思ですが、今のところ最も簡単で有効な手段は「見ない」だと思います。そのためには作る側もより明確な形で「見たくない人の目に入らないような措置」を取ることも必要です。
 
そういう意味では、《呪いの家》に接触しただけで否応無しにふりかかる《呪い》は、現実世界における酷い表現に対応しているのかも知れません。
 
架空の物語はコントロール出来ませんが、現実世界はそのままにしておく訳にはいかないので、もっと良い解決策を見つけることが出来れば良いのですが、現時点では「見ない」というのが現実的な妥協点である気がします。
 
そして『呪怨』のビデオ版をレンタルして後悔するほど恐怖したように、架空の作品を見る事で過去にあったり現在にも存在している様々な問題にまなざしを向け、そこで体験した恐怖や嫌悪をもとに現実世界の自分自身や他者の行為について考えることが有効なのではないかと思うのです(少なくとも自分はあんな気持ち悪くて怖い事を自分でしようだなんて微塵も思いません)。
 
なんか言い訳めいた文章になってしまいましたが、恐ろしくてハードで陰惨なものが大丈夫な人は観て損は無いと思います(きっちり嫌な気分になるという意味で)。
 
最後に、一度聴いただけで強烈な印象を残すエンディングテーマである、マレウレウ「sonkayno」のアイヌ語「ソンカイノ」を調べてみて、ネットで見つかったその意味を見た時、背筋が凍りついたことをご報告して終わりたいと思います。その意味は、
 
「子どもを従えて」。
 
 
※Netflix映画『呪怨:呪いの家』独占配信中
 
【予告編】

 
【視聴リンク】
https://www.netflix.com/title/81059942

作品データ

製作年:2020

監督:三宅唱

製作:Netflix

出演:荒川良々 黒島結菜 里々佳 岩井堂聖子 柄本時生 仙道敦子 倉科カナ 他